ベタベタとした暑さがまとわりつくような夏、手足がかじかみうまく寝付けない冬。日本特有の気候に苦しむそんな時、無性に地中海のカラッと健康的な日差しに当たりたくなるのは自分だけではないはず。とはいえ円安、値上げ、感染症の勢いもまだまだ衰えないということで、海外旅行のハードルは依然高いまま。そこで国内にいながら、手軽に地中海の風と香りを楽しめるオススメの数冊をまとめました。
- 「君の名前で僕を呼んで」アンドレ・アシマン
- 「太陽がいっぱい」パトリシア・ハイスミス
- 「海の百合」アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
- 「ベニスに死す」トーマス・マン
- 「悲しみよこんにちは」フランソワーズ・サガン
- 「夜はやさし」F・スコット・フィッツジェラルド
- 「八月の日曜日」パトリック・モディアノ
- 「愛し続けられない人々」レイチェル・カスク
- 「ナイルに死す」アガサ・クリスティー
「君の名前で僕を呼んで」アンドレ・アシマン
舞台:イタリアのリグーリア海岸
北イタリアの避暑地にひと夏のあいだ客人を招くことが慣例となっている17歳のエリオの家族のもとに、24歳のアメリカの大学院生オリヴァーが訪れる。地中海の陽光がもたらす程よい倦怠感、さざ波の音、鼻腔をくすぐるシトロネラの香りに包まれながら、テニスや海水浴に興じる二人の距離はやがて縮まっていき…。
ティモシー・シャラメ主演の映画で話題となった作品。観る前に原作を読んでおきたいと手に取るも、こぉれぇは…あの頃の初恋を強制想起させる作品、途中あまりに悶絶し過ぎて「タンマタンマ」と息を切らしながらMP回復のために一ヶ月寝かせた程。前半の大部分を締める恋の駆け引きが自分が主人公と同い年だったあの頃を鮮明に思い出させ、息も絶え絶えになる。慌てて外した視線、近付く足音に跳ねる心臓、触れた肌に全神経が注がれ、ピリピリとするあの感覚…ううう、これ以上は書くのは拷問だ。忘れた頃にそっと開けては思い出の結晶を取り出し、しばし感慨にふけった後に静かに閉める、そんな引き出しを強引に開け放たれた気分。しかし、その結晶が確かに存在する幸せにも気付かせてくれた。これは…これは…凄い作品だ。未だMPが充分に回復していないので、映画は観れず…。イタリアの日射しだけでなく、二人の愛に目を潰されること必至…。
当初は分からなかったタイトルの意味が何とも尊い。自分の名前で呼び合える人がいた、というだけでもどれだけ幸せなことか。そんな忘れられない恋を思い出したい方、また、そういった恋はまだしていないけれども、後悔のない選択をしたい方は、是非。
「太陽がいっぱい」パトリシア・ハイスミス
舞台:イタリアのナポリ、ローマ、ヴェネツィアなど
大学卒業後も定職に就かず知人の家を転々とし、その日暮らしの生活を送るトム・リプリー。詐欺まがいの行為に手を染める寸前、ヨーロッパに滞在したまま帰らない息子ディッキーを説得しアメリカへ連れ戻してくれないか、と二人を旧友同士と勘違いした実業家に依頼される。旅費も滞在費も負担してもらい、実際には会ったこともないディッキーを難なくナポリ付近で見つけたトムだったが、自分とは違い裕福で他人に媚びへつらう必要もなければ、日がな一日絵を描いて過ごせる彼に愛憎入り混じった感情を抱くようになり…。
アラン・ドロン主演の同名映画とマット・デイモン主演の『リプリー』と、二回も映像化に恵まれた有名作品(どちらもまだ観ていない…)。スリラーに属する小説なので、ネタバレをせずに感想を述べるのがかなり難しいのだけど、予測できない展開以上にトムと周囲の人間のキャラクター造形が興味深い作品だった。『アメリカン・サイコ』のパトリック・ベイトマンや『羊たちの沈黙』のレクター博士に代表されるサイコパスというよりは、どこか精神的脆さが伺えるソシオパスであるトム。彼と比べるとディッキーや彼の父親の冷酷さの方が目につくため、彼らがどんな境遇に陥ろうともトムを応援せざるを得なくなる。巧い…。
舞台もナポリからローマからヴェネツィアと変わり、まるで自分自身がイタリアを周遊しているかのよう。旅行気分を味わいたい人にもオススメ。
「海の百合」アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
舞台:イタリアのサルデーニャ島
夏の終わり、友人とバカンスに訪れたサンタ・ルチア・ディ・シニスコラで、とある乙女が見知らぬ青年に純潔を捧げるまでの物語…と、あらすじだけを読んだなら「キモ〜」と思い絶対に手に取らなかったであろう本作、幼少期からしょっちゅう海で泳いでいたので、その精緻な描写にただただ圧倒された。例えば、特に好きだった日盛りの浜辺で二人の少女が海水浴に興じるシーンー
なだらかな海底をゆっくりとあゆむにつれ、ふたりのからだを取り巻く水のかさが、ごくおだやかに増していく。それというのも、海にはかすかなしわ、表面を走るわずかな起伏、といったほどの波しかなく、それも通りすぎるとき肌をくすぐるので、ようやくわかるようなものだったのだ。つま先で立っていながらも、ヴァニーナは腹部に、噛まれたような、しめった冷たさを感じると、思わずからだを弓なりにそらせた。
こういう、人間が空をあおぎ、大気と海との境界と一致する平らな姿勢でいると、人は庖丁で切られるみたいに、冷気と熱気とを同時に感じる知覚の線で切られることに、また、なんらかの方法により、基本的な分割線で、二分されることになるらしい。が、たいていは、熱気はなににもまして強い。ヴァニーナとジュリエットは、水面に現れている部分はのぞき、からだは冷たい水のなかにひたしてはいるものの、意識にのぼるのは太陽だけだった。
わ、分かる〜!まるで自分もその場にいるかのようにリアル。しかし当事者として輪(話)に加わることは決して出来ず、ただただ傍観者として物語の行末を見守るしかない。クライマックスの破瓜の儀式に至るまでに、ひたすら焦らされる展開がまた秀逸なのだけど、それは一読するまでのお楽しみ。二十代の頃から近辺に足繁く通ったらしい作家だからこその一冊を堪能して欲しい。この記事の中で一番「地中海の夏」を感じられるかも。
「ベニスに死す」トーマス・マン
舞台:イタリアのヴェネツィア
並々ならぬ努力と自制心で、地位も名誉も手に入れた有名作家のアッシェンバッハ。新作の執筆に詰まった彼は、突然思い立ったかのようにヴェネツィアへとバカンスに旅立つ。そこで出会った天使のような美しさを持った少年。彼の圧倒的なまでの美、そして若さの前に、アッシェンバッハの理性は崩壊し、ただただ少年に耽溺していくのだった。
前半、アッシェンバッハの人と成りを説明した部分が難し過ぎて心が挫けそうになったが、後半、特に彼が狂気に傾き始める頃からのストーリーがメチャクチャ面白い。アッシェンバッハの老いに対する恐怖、滑稽なまでの悪あがき。今はそれが悲惨にしか思えないが、果たして自分が彼と同年代になった時にもう一度本作を読んでみたら、どんな感想を抱くのだろうか。疫病の魔の手が拡がり、徐々に閑散としていくヴェネツィアの光景も、コロナ禍初期の様相と同じだったのだろうかと想像してしまう。
「悲しみよこんにちは」フランソワーズ・サガン
舞台:フランスのコート・ダジュール
17歳のセシルと、女を取っ替え引っ替えしているまだまだプレイボーイとして現役な父。そんな二人と父の恋人エルザは、今年の夏も南仏のビーチで自由奔放な毎日を満喫する予定だった。が、亡き母の友人であり、美しくも厳格な女性アンヌが突然合流する事になる。父の心がアンヌに傾き始めた事を察したセシルは、ボーイフレンドを巻き込みある計画を企てるも…。
なんという事だ、作者が17歳の時に執筆した作品だと…?!未だに信じられない程衝撃的。原稿を受け取った編集者が一読してすぐに出版を快諾したのも頷ける。読めば一瞬で眼前に広がる真夏のビーチ、十代が書いたとは思えない程卓見した人物の心理描写。凄いの一言に尽きる。 自分が憧れとし、文字通り鏡とするような女性が現れた事で、その鏡に反射した自分を初めて客観視するようになったセシル。そこからが早く、彼女は一晩にして目覚ましい成長を遂げる。そう、これこそが若さだ!なんて眩しい。物語の締め方に少し幼さが伺えるのもご愛嬌。セシルが毎朝コーヒーと共に食べているオレンジのような、「若さ」という果汁滴る青春の一冊。
「夜はやさし」F・スコット・フィッツジェラルド
舞台:フランスのコート・ダジュール
『グレート・ギャツビー』で有名なフィッツジェラルド最後の長編。九年もの年月を掛け精魂込めて執筆しただけあり、著者自身は「最高傑作」と評したらしいが、出版当時の販売は振るわず。彼の死後、世間から再評価されるに至った作品。エピソードを時系列に並べ替えた改訂版が出ているが、オリジナル版のこちらの方が断然オススメ!なんといっても章立てが秀逸。全体を三部に分け、まず第一部では女優として花開きつつあるローズマリーが母と共にフレンチリヴィエラの浜辺に訪れるシーンから始まる。そこで出会った精神科医ディックと妻二コルの輝きには、読者も魅了されること必至。特に彼らの邸宅で開かれる夜の宴の描写が走馬灯のように美しいんだよなぁ…。はしゃぐ参加者らの笑顔も刹那的で…。一転、第二部では過去に遡り二人の出会いを描く。そして野心溢れるディックの決断がどのような顛末となったか、最後の第三部で明かされる。古き良きアメリカの栄華と凋落を象徴していると言われる本作、アメリカ人がヨーロッパで大金をばら撒くような時代があったとは知らなかったので、とても新鮮だった。風呂の栓を抜いて、残り湯の渦がどんどん小さくなっていくような物語の終わりが堪らなく好き。年を重ねた後にまた再読すると思う。
「八月の日曜日」パトリック・モディアノ
舞台:フランスのニース
地中海が舞台の「八月の日曜日」と聞いて思い浮かぶのは、海辺でリネンに身を包んだ観光客が、小麦色の肌を陽光にさらしながら小粋なグラスからアペリティフを一口味わう、そんな明るい光景。しかし、だ。本著はタイトルに反してそんなシーンは最後の最後、主人公の陽炎のような甘い過去の記憶としてしか登場しない。翻って本編を覆いつくすのはどんよりとした冬の雨雲、先行きの不安、終始誰かにつきまとわれる感覚。騙された…完っ全に騙された…。どうやら著者の作品を読み慣れている方であれば予想はつくらしいが。とある昔の顔馴染みとの邂逅をきっかけに、失った愛の足跡を辿る主人公。謎の夫妻の正体は?シルヴィアの行方は?ノワール・サスペンスの要素もある一冊。
「愛し続けられない人々」レイチェル・カスク
舞台:ギリシャの島々
他人との会話でほぼ構成された奇妙な小説。主人公は最近離婚したばかりの女性作家。ライティングコースの講義のためにアテネに向かっていること以外は殆ど素性は明かされない。飛行機で隣り合った男性、友人、生徒たち…主人公と同様に離別を経験した彼女の周囲の人々は、嬉々として自分語りを始める。自らの正当性を主張するだけで、一向に他人の話には耳を傾けず…。しかしそれを聞く主人公も公正という訳ではなく、自分なりの意見や感想を挟む。ストーリーを展開する側は、あることは故意に隠し、あることは誇張する。ストーリーを受け取る側である主人公は、あることに耳を閉ざし、あることに固執する。まるで言葉の舞、フェンシングのよう。発せられた言葉に込められるは願望、黙された言葉に秘せられるは信条、そう主人公は構えて他者の話を聞いているからか、登場人物それぞれの「独白」に特定の教訓を見出そうとはしない(作中のある人物が別の人物の言っていたことを否定していることもままある)。でもこれが人と人との交流で生まれる会話、会話と会話で紡がれる日常だよなぁ…他人の話の一部の中から、その時々の自分にとって一番(都合の)良いものを選び出して、心に留めたり、しなかったりする。この本も、離婚を経て自分の半身を失った人達が、再度自分の輪郭を取り戻そうとするかのように、必死に「自分」を語るのだけど、もしかして輪郭の形成に一番必要なのは主人公のように他者の言葉に耳を傾ける行為なのかもしれない、と思った(ただこれを否定する登場人物もまたいそうなのが面白い)。ギリシャの美しい地で起きるのは事件ではなく、ただ人々の心の中の嵐だけ。いざ一人になった時に心の拠り所となるものは何か、考えさせられた。
「ナイルに死す」アガサ・クリスティー
舞台:エジプトのアスワン、ナイル川
地中海周辺といえば広いはずなのに、ヨーロッパ大陸をパッと思い浮かべてしまうのだけど、エジプトも勿論含まれるということで。『オリエント急行の殺人』に続き読んだ二作目のポアロシリーズ。第一章ではモンタージュ形式で、莫大な富と類稀なる美貌に恵まれた才媛リネット・リッジウェイと周辺人物が描かれる。ページを捲る度に彼女に悪意を抱く輩がジワジワと増えていって、こ、怖い!そして、彼女が新婚旅行で乗船したナイル川を下る「カイナック号」で事件は起こる。あとは居合わせたポアロが解決すれば良いだけか、意外と肩透かしな展開だったな…と思いきや、続く超展開に超展開。そして一番の動機持ちにはしっかりとアリバイがあり、一見無関係な乗客にバリバリの動機があることが判明し、一気に緊張感が高まる。ラストは期待に外れず衝撃的。面白かった!著者の旅先での経験を元にした「外国旅行物」の自信作と言うだけあって、旅情とスリルを同時に得たい方はこの一冊を使ってナイル川の豪華客船上にワープしてみては。